物差しのDIY──名前をつけて、測って、自分を取り戻す

はじめに

日々の生活や仕事の中で、他人の物差しに合わせて自分を動かしてしまっている感覚はありませんか?
名前をつけて現象を認識し、自分で測って改善していく──そんな「自分だけの物差しをつくること」が、今の時代に必要だと感じています。

この記事では、現象に名前をつける意味、数値化の功罪、テクノロジーによる物差しの固定化、そして「自分で判断基準を設計する」という考え方について綴ります。

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図はAI画像生成で本記事の内容を4コマ化したものですが、まだ日本語が苦手なようです。

名前をつけるという工夫

現象に名前をつけることで、初めてそれが認識され、共有され、コントロールの対象になります。
名前は、物事を認識するための入り口であり、改善の第一歩です。

たとえば職場でよくある問題も、「〇〇現象」などと名前をつけるだけで、それが起きているかどうか、対策方法は何か、などみんなで議論できるようになります。

測ることとやる気の関係

容易に測れるものだけを頼りに何かを判断するのは簡単です。

SNSの「いいね」などは、わかりやすい例です。数が増えたのはわかりやすいし、それを増やす行動に自然と向かってしまう──こうして、他人の判断基準に自分の行動が左右される構造が生まれます。

映画『インターステラー』に見る多様な価値観

映画『インターステラー』の中で、息子を大学に通わせたいと考える父親の主人公のクーパーが学校の面談でこんなことを言います。

「ズボンにだってウエストと股下の2つも測り方があるのに、息子の未来は1つしかないのか?」(意訳)

(詳しくは 『映画スクエア』 の記事を参照)。

このセリフを初めて聞いたときはピンと来なかったのですが、今になって思うのは、「人間の評価はもっと多様であっていい」というシンプルだけど本質的な主張です。

スマートフォン時代の物差しの統一化

スマートフォン向けのアプリは、1つの「完成品」を作ると、それを何百万回でもコピーして簡単に配ることができてしまいます。
その結果として、特定のアプリやサービスが持つ「判断基準」が、多数の人々へと広がっていきます。

しかしその判断基準──たとえばフォロワー数やいいね数といったもの──は、本質的に“多くの人が信じているだけ”のものです。
つまり、「共同主観的現実」に過ぎません。
(詳しくは 『サピエンス全史』 (Amaozon)を参照)。

自分の物差しをつくる

こうした状況の中で、「指針は自分で決めていい」という気づきにたどり着きました。

これらを自分の意思で設計していくことが、これからの時代に他人に自分の価値観を委ねず、自分の手で主体的に生きていく方法なのかもしれません。

タスクの実行時間を測るという試み

最近、取り組みたいタスクに対して、所要時間を名付けて計測し記録することができるアプリを個人的に開発しています。
外から与えられた物差しに左右されるのではなく、自分が大事にするタスクに名前をつけて認識し、数値化し、注意散漫を改善することが目的です。

ツールはあくまで手段ですが、自分自身の課題と変化を“見える化”することで、強い内発的動機づけが得られるメリットがあります。

数値化による副作用とAIのアラインメント問題

ただし、すべてを数値化しようとすると、副作用も生まれます。

たとえば、AIのアルゴリズムに「ユーザーのSNS利用時間を最大化せよ」という具体的な目標を与えることにより創意工夫をこなし、
ユーザーが投稿した差別的で憎悪に満ちたなコンテンツをアルゴリズムがリコメンドし続け、現実世界での少数民族の迫害に繋がった例もあります。このような課題はアラインメント問題と呼ばれています。
(詳しくは 『NEXUS 情報の人類史 下』 (Amaozon)を参照)。

単純な具体的目標は、かえって人をミスリードすることがある。
これは、AIだけでなく私たち自身の生活設計にも当てはまります。注意が必要です。なお、NEXUSによればアラインメント問題は、新しくもなければ、アルゴリズム特有のものでもなく、古くはナポレオンの時代の書物『戦争論』にもはっきりと書かれており人類を悩ませ続けているようです。

おわりに

我々は本来、多様な側面を持ち、さまざまな評価のされ方があってしかるべき存在です。
けれどもテクノロジーの発展で、“わかりやすい数字”で評価される場面が増えてきました。

しかし、他人が差し出した物差しを鵜呑みにするのではなく、それが自分のためになるのか考え、否であれば自分で指針を定義し、測り、改善していくこと。
それが、現代を生きる私たちにとっての「自分の物差しをつくること」なのかもしれません。